京都市山科区個人的ポータルサイト 『山科ご近所物語』のための基礎資料
    2017年6月1日開始
 背景の考え 自分の当分住む予定の地域について詳しくなっておくことはいろいろな意味で
大切である。2004年から山科区北西角に住む可能性が発生し、8年後の2012年より本格的に
住みはじめた。といって付近の情報にはうとい。最近になって知ったことも多い。これらの情報
を個人的な覚えとして集積しておきたい。
 ある地域で生まれて育つ場合、0歳から15歳頃までは地域と深いかかわりを持つ。しかし、
高校・大学・就職というプロセスで出生地とは無関係になる人が多い。リタイアして60歳以降
また地域と深い関係を持つ可能性が発生する。無関係に過ごす場合もあるだろうが、行動圏
も限られてくる(逆にそのことを活かすことが大切となる)。15〜60歳までの感覚と、0〜15歳、
60歳以降の地域感覚は根本的に異なっている。この点を意識することが大切と思う。
 つまり山科区でなくても「ご近所物語」は大切である。
 わたしの姪っ子ムライの『京都ご近所物語』はいろいろな意味で刺激的である。

 山科区は山科盆地の北半分で、長方形に考えると北端を京阪京津線(山科まで東西線)が通っている。
 ここは三条通り(旧1号線)である。東西線は外環状道路に沿って南下する。
(蹴上)→御陵→山科→四宮→追分→(大谷)→(上栄町)→(浜大津)
           ↓
          東野 (1号線・新幹線)
           ↓
          椥辻 (十条通り 山科区役所)
           ↓
          小野 (西が勧修寺 少し北が名神)
           ↓
          (醍醐)
           ↓
          (石田)
           ↓
          (六地蔵) JR奈良線・京阪宇治線

  土地勘を得る上では、山科と東野の間に、東西にある渋谷街道を理解しておくことが大切。

  山科区に住むと、毎年1度全戸配布される住宅地地図がある。これは小学区ごとの
住宅地地図である。山科区の13小学区のうち二つにまとめた10の地図
(陵ヶ岡 百々 大塚 大宅 小野 山階南 鏡山・西野 勧修 音羽川・山階 安朱・音羽)が配布されているようである。
 私の宅には陵ヶ岡学区の地図が配布されている。
 
 『おこしやす山科協議会』が山科散策の8コースを示すなど山科情報をまとめて示している。
  この中のBコースは、「旧東海道へタイムトラベル」! 地下鉄御陵駅出発で四宮駅までのコース。
  この中のGコースは、「山科川の自然と野鳥に触れるコース」!
  地下鉄東野駅出発で小野駅までの約3.5kmのコース。水鳥・水辺の鳥の基礎が観察できる。

 山科盆地の南西角(伏見区)から山科区へ引っ越してきて、京都市立山科図書館のご当地
コーナーへ行くと、山科ふるさとの会関係の書籍がいっぱいあって驚く。ふるさとの会の
ウェブサイトには、鏡山次郎氏のホームページがリンクされていて、この情報量が半端でない。
 ふるさとの会会員からいただいた、「山科のお地蔵さん」を持っている。山科区にある13の小学区別
に地域の概説後に確認された地蔵と地蔵盆の行事についての詳細な報告が掲載されている本である。
 
 山科区北端は旧東海道が通っている場所である。東海道は江戸時代後期に拡張してコースも
かわった。このあたりの歴史を理解する上では「車石」について理解することが必要である。
 大津から三条までざっと歩いた方の記録。大きくはこれで判る。車石についての詳細が判る記録もある。
 車石・車道研究会という会もあり、調査中の会員にであうこともある。

 山科区の北端では山科疏水の理解が大切である。
 琵琶湖疏水の中での山科疏水の部分を理解する必要がある。
 戦後諸羽トンネルというのができた(湖西線の関係で)。
 琵琶湖側から第1トンネル(2436m)が出てきてから滋賀県・京都府の境界があり、洛東用水が
出ていて、上記の新設の諸羽トンネルががあり、第2トンネル(124m)がある。第3トンネル(850m)
で蹴上に出る。第2トンネルの東側入口近くにあるのが栗原邸である。第3トンネルの東側入口近く
日本で一番最初にできた鉄筋コンクリート橋である。

 千葉県我孫子市にある公益財団法人山階鳥類研究所 の山階と、山科は大きな関係がある。
研究所創設者山階芳麿夫妻の菩提寺は山科区にある勧修寺である。山階芳麿氏の祖父晃親王(初代
山階宮)はこの寺と深い関係がある。
 勧修寺の塔頭に仏光院がある。鳥に教えられて口で筆をくわえて絵をかくようになった大石順教
寺として著名で、どちらも鳥に関係がある寺といえる。
 
 もう一つの我孫子市とのつながりだが、我孫子に住んでいた志賀直哉が我孫子を離れて京都の三条に
まず住んでその後山科にうつって住んでいる。「山科の記憶」という作品がある。その後奈良へ行って
結構長く住んでいる。